<海辺の宝石=シーグラス> どんなに高価な宝石よりも、どんなに名高い工芸品よりも、海辺に落ちている「ただのガラスのかけら」の方が、ずっとずっとはるかに美しい・・・・世界中のシーグラスファンは、皆本気でそう思っています。渚美術館が贈る、ちょっと変わったシーグラスのブログ。
シーグラスの謎
シーグラスは、一体どこからやって来るのでしょうか?
木や水のような「水に浮く物体」であれば、それが遠い異国の地から、潮や波に運ばれてやって来ることもあるでしょう。
しかし、水に沈んでしまう「ガラス片」が、はるかかなたから海中を移動してくるには、量的にも距離的にも限界があると思われます。
そこで、もしシーグラスが「長距離移動の産物」だと考えたいのであれば、それはまだ中に空気の残った「ビン」という形のまま「海上」を流れて来て、そこで割れてかけらになったと考えるのが妥当かもしれません。
ただ、栓をしていない限り、ガラス瓶はやがて水が入って沈んでしまうので、結局のところそうした長距離の移動も、極めて限定的と見る必要がありそうです。
例外として、流される場所が「川」であれば、たとえそれがガラス片であろうとガラス瓶であろうと、台風などの増水時に河口を通って海へと押し流され、結果的にそれなりの距離を稼ぐことはあるかもしれませんが・・・・。
こうして考えてみると、私たちが浜辺で見かけるシーグラスの多くは、その付近の海や岸から投棄されたガラス製品が、「そこで割れて削られ、やがてシーグラスになる」というのが一般的な由来ではないかという気がします。
また、以前「船から海にごみを捨てる人が少なくない」という話を聞いたことがあります。
最近では環境保護への意識も高まり、そうした行為も少なくなったと信じたいところですが、当然そこにはガラス瓶も混じっていたことでしょう。
近くに町も川もない浜辺でシーグラスが見つかるのは、きっと「昔近くを通っていた船」が、その発生源と見るのが自然かもしれませんね。
以前、こんなことがありました。
台風が来ている時に海へと出掛けたのですが、長い砂浜一面が、まだシーグラスになる前の「大きなとがったガラス片」で一杯だったのです。
「数年はここで泳げないだろう」と本気で心配するほど、それはそれはすさまじく悲惨な状況でした。
もちろん、拾えるだけ拾って帰ってきましたが、量的な問題はもちろんのこと、それらが「砂に埋まっている」ため、たとえ千人の人手があったとしても、とても手におえる状況ではありません。
それに、そもそも台風の最中にあって、浜辺には誰もいないのです。
取りあえず出来ることと言えば、ただ役場へ電話するのが精一杯でした。
ところが、さらに驚くべきことが起こりました。
翌日再び浜辺に行ってみると、あれほど浜を埋め尽くしていた危険なガラス片が、「全く」無くなっているのです。
あれは幻だったのか?
それとも、これが幻なのか?
いや、「奇跡」が起きたのかもしれない・・・・!
まさに狐につままれたような思いでした。
恐らく、新たな大波と潮によって、再び近海へと流れ出たと考えるべきなのでしょう。
「自然の力はすごい!」のひと言に尽きます。
しかし、シーグラスが遠くからやって来られないのと同じ理由で、この浜辺のガラス片も、やはりそれほど遠くに行けるとは思えません。
にもかかわらず、それから数日してその海に潜ってみても、海底にガラス片は見当たらないのです。
一体、ガラスたちはどこへ消えたのでしょう?
そして、彼らは一体どこからやって来るのでしょう。
シーグラスの謎は、深まるばかりです。