海辺には、たくさんの漂着物が打ち上げられます。
多くの人が訪れる夏の海水浴場では、それらは事前に「ゴミ」として片づけられてしまうため、あまり目にする機会はないかもしれません。
けれども、オフシーズンはもちろんのこと、夏でも観光客の来ない海岸などでは、そうした漂着物の数々を目にすることができます。
その種類は実に様々で、海草や流木などの自然物から、人間が作った人工物の残骸に至るまで、本当に見ていて飽きることがありません。
中には難破船から打ち上げられたのか、本物の宝石類や貨幣などもありますが、それらを除けば、ほとんど金銭的な価値のないものばかりです。
にもかかわらず、そうした漂着物に魅せられた人々は世界中に存在しています。
どうしてでしょうか?
おそらく、その理由は自然物にしろ人工物にしろ、その形が「本来の姿から大きく変化している」からではないかと考えられます。
その変化の中に、「何か」を感じているのです。
では、その「何か」とは、一体何なのでしょうか・・・・?
「諸行無常」という言葉があるように、この世に存在するすべてのものは、時間の経過とともに必ず変化します。
そして、その多くは老化や劣化などという「緩やかな変化」であると言えるでしょうが、中には偶発的な要因により、「突発的な変化」を余儀なくされるものも出てくる訳です。
その予期せぬ変化が、時にそれ自身にとって「内的な価値」を持った時、それが「進化」と呼ばれることになります。
一方で、その変化が外部に対して価値を持った時の一つが、まさにこの「漂着物の魅力」ということになるのでしょう。
漂着物は、波や風や時間という自然の力によって、「元の形」を失った状態にあります。
そして、元の形を失うということは、それまで持っていた「本来の意味」を失うということに他なりません。
生物であれば、多くの場合それは「死」を意味し、人工物であれば、それは「本来の用途を失う」ということになるでしょう。
けれども、例えば魚たちが人工物の残骸を住かとすることがあるように、人間もまた、漂着物の中に「新たな意味」を見出すことがあります。
世界中のシーグラスファンは、そこに「美」という意味を発見したのです。
漂着したガラスのかけら、「シーグラス」の中に・・・・。